自己表現とインターネット

人はほかの人に自分を理解してもらいたいと思う。

ここでいう理解とは、自分がどんな人生を歩んできてその時々どう思ったか、

自分はどんな性格で、どんな趣向をもっているか、など多岐にわたる。

あえて比喩を試みるのなら、どんなふうに世界を味わっているのかを知らせたい、自分の感じた味をほかの人にも味わってほしいといったところだろうか。

大体の人間はface to faceのコミュニケーションが相互理解には必須だという。

それはある意味では正しいだろう。会ったこともないネット恋愛の末路はだいたい悲惨なことからもわかると思う。

〈恋愛が究極の他社理解、というのは議論の余地があるというか、曖昧すぎる話ではある〉

だが確かに、会わなければわからないことはあるが、会わないから見せられる一面というのもある。

かつて、インターネットではほかの人に見せられられない自分の一面を発揮するのは恰好の場であった。

それはリアルとインターネットが完全に線引きされていたから成立した構図だ。

最近はリアルとインターネットの線引きが曖昧になっている。

リアルのペルソナの延長線上の人格でインターネットを生きる人たち、

昔のように完全に分ける人たち、はたまたそのはざまにいる人たち。

彼らが混在したらどうなっていくのだろうか。

僕は昔からインターネットを利用していた立場で、自分の言いたいことをはっきり言うことが習慣となっていた。でも、時代の流れによって僕もネットで友達や恋人を作ることがやはりある。それはとても便利なことなんだろうけど、適切な距離感、見せるべき一面、そういったことがとても複雑になってしまって失敗してしまう。

全ての自分を受け入れてほしい、それはそうだけれど、そんなことは叶わない。

インターネットは僕らを待ってくれず変化していって、自分も変化していって、向き合い方もずっと変えなくてはいけない。

それでも僕は、他者に歩み寄るというとても危険で甘美な、そういう欲求を捨てずに生きていきたい。