なんのために生きるか

日差しが強かった。面倒すぎてスポーツウェアのまま大学に行った。講義室の中で一番適当な服装をしていたと思う。

最近朝起きるのが辛い。ああ起きなきゃ、と思っても最後のハードルが越えられず寝てしまう。慢性的な疲労に悩まされている。

それについては別に何をやっても解決しないので半ば諦めている。人間限界がある。

最近、自分には到達できない目標を持つことをやめるように意識している。人間限界がある。

それでも何かを達成すればこの灰色の日常が変わるという思想から抜け出せない。これについては勿論現時点ではっきりした答えは出せない。

月並みだが、なんのために生きているのかと思う。こういうとき、よくわからんおっさんにその意味を求めるのが人生だよ、と言われるとそこらへんの椅子や机をひっくり返してクソボケカスと叫びたくなる。まあ、そんなおっさんはそう多く存在するわけではなく、仮想敵に過ぎない。そこらへんの「女の子は同調してもらいたいだけなんだよ!」とか言ってくるクソ女とこの時は同質である。俺は、そうですね、なんのために生きてるんでしょうね、人生は、辛いものです。と言ってほしい。そして、まあ、まだやっていきましょうや、と、なんとなく、別に救いの手を差し伸べるわけでもない、ただいっときの同情の念を向けてほしいのである。

勿論、そんなことをやってくれと直接的に言うわけでもないし、利害関係が絡まなければ要求する筋合いもないといえばない。時々やってくれる優しい人には、密かに心の中で感謝の念をもつくらいである。

なんのために生きているのか、こう口走るとき人間はどういう状況に立たされているのだろう。もちろん多種多様であることには間違いないが、少なくとも今の現状に不満を持っている、この部分では一致していると思う。

自明なことだが、満たされている状態は長く続かない、また月並みな表現になるが、諸行無常である。だから、人間はなんのために生きているのか、そういう思いを死ぬまで持っていかなくてはいけない。そういう意味ではおっさんの言っていることはある意味一部的を得ている。問題は、さも自分がその問題に対して悟ったかのように語ってくることだ。お前は本当にその問題を解決できているのか?解決できているとしたら、彼の言っていることは倒錯している。死ぬまでわからないんじゃないのか。

うまくまとまらないが、とりあえず現在なんとなくうまくいっているからという理由で、解像度の低い、曖昧なマウントをとってくる人間に対しては少しご遠慮願いたいという気持ちになる。まあ自分もたまにやってしまうから、そこは椅子をひっくり返さずに曖昧な微笑で答える。

彼も悪気があるわけではない。ただそれを許してしまうと、自分が同じことをやることになる。他者に批判的な目を向けないということは、自分にある悪い部分も見逃してしまうということである。簡単に言うと、他者に甘い奴は自分にも甘い。

ただ、あまりに他者の粗探しをしていると不幸になるというのは直感的に感じるものがある。

自己実現と幸福感、幸福感と言ってもここでは社会に適合してなんとなくうまくやっていく程度の意味合いだが、そこは折り合いがつかないところがあるのではないかと思った。