更新サボってた
1ヶ月くらい配信をサボっていた。テスト期間でなんとなく更新しなかったらそのままずるずるいってしまった。でもまだ1ヶ月しか経ってなかったんだ、という感覚がある。とても久々にアプリを開いた。
この1ヶ月で色々なことがあった。一つは占いを配信アプリでするようになったことだ。
自分は3年前くらい前に自己リーディングのためにタロットカードを始めた。ユング心理学を学んでいた際鏡リュウジという人の存在を知っていたのと、個人的に尊敬している理系の人間がやっていたことが合わさってはじめるにいたった。
この1ヶ月でおそらく数百件カードを引いてかなり上達というか、理解は深まった。
そして西洋占星術や四柱推命に最近興味が出てきている。四柱推命で見ると、自分は日本では成功できないから北米や西ヨーロッパに行かなくてはいけないらしい。能力はあるらしいのだが運が回ってこないとのこと。
かなり安易な理由に思えるが英語とプログラミングができれば食いっぱぐれないのは確かなのでそれをエンジンにして頑張ることにした。
ハロートークというアプリが凄くて、英語の文章を載せるとネイティブが無償で添削してくれる。これが受験生の頃にあったらもう少しマシだったのになと思った。あと、ラジオアプリでネイティブがたまに枠をやっているのでそれを聞いたりしている。
なんだかんだで自分は夏は躁になるみたいだ。あまり寝なくても活動できるし気分もあまり落ち込まない。常夏の島で暮らしたい。
夏はいつまでも続いていく。彼女が待つ、その大気の下で。
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いい加減に晴れて欲しい。ドーンと雲から圧力がかかるのを感じる。
最近タロットを始めた。無責任に無料で相手のことを占うのはなんとなく自分が価値のある人間に思えて楽しい。
象徴について興味があるのでそれにうまく合致しているところはある。
まあただの遊びの域からは出ないんだが、一つ趣味ができた気がする。
最近なんか食べてしまって体重が心配な段階になってきている。もうなんだか、面倒臭い生きるの。眠るように消えていきたい。
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テストが近い。間近なものだと来週にある。
テスト一発勝負なのでこの時期は苦しい。
あまり勉強できないけど、やるべきことをやろうと思う。持ち込み可の試験なら資料を用意するとか、もっといえば試験に出るとか。
気候や環境にこんなに敏感で週5、8時間とか果たして働けるのかなと思う。決定論的?になるが働けない個体だった場合、今やっていることは無駄ともいえなくもないので無意識がそれを拒んでやらないということもあり得そう。
遺伝がどうとかもっと言うと神がどうとか考えだすと絶望以外ないのであまりこういうことは考えたくないものだ。
ただまあ、程度によるのかなと思う。自分ができることとできないことを悟っていくのが老いであり成熟するということだ。
自分の才能を開花させたい。もちろん何万人に1人の業績は残せないが。
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今日はコンサータがいい感じに決まってパリッとしていた。講義にも苦痛なく出ることができた。問題はこの状態が長く続かないことだ。
脳に確実に負荷はかかっているのでその面でのケアが大事なのかもしれないと思っている。
脳にいい習慣、エッチと瞑想しか思いつかない。
瞑想とか催眠音声って虚無に耐える必要があるので逆に疲れ果てることがしばしばある気がする。手軽にふわふわできる手段、酒と睡眠薬しか思いつかないが体へのダメージは蓄積されているらしい。
明日明後日はお金がないので何をすればいいのかわからない。常々言っているが退屈と寂しさに向き合うのは本当に骨が折れる。
夏に向けて痩せようと決心したはずなのだが横ばいである。最早そういう問題が些細に思えてくる。人が思い悩んでいることが瑣末なほど人間は幸福なものである。ショーペンハウアー さんは言っています。
なんのために生きるか
日差しが強かった。面倒すぎてスポーツウェアのまま大学に行った。講義室の中で一番適当な服装をしていたと思う。
最近朝起きるのが辛い。ああ起きなきゃ、と思っても最後のハードルが越えられず寝てしまう。慢性的な疲労に悩まされている。
それについては別に何をやっても解決しないので半ば諦めている。人間限界がある。
最近、自分には到達できない目標を持つことをやめるように意識している。人間限界がある。
それでも何かを達成すればこの灰色の日常が変わるという思想から抜け出せない。これについては勿論現時点ではっきりした答えは出せない。
月並みだが、なんのために生きているのかと思う。こういうとき、よくわからんおっさんにその意味を求めるのが人生だよ、と言われるとそこらへんの椅子や机をひっくり返してクソボケカスと叫びたくなる。まあ、そんなおっさんはそう多く存在するわけではなく、仮想敵に過ぎない。そこらへんの「女の子は同調してもらいたいだけなんだよ!」とか言ってくるクソ女とこの時は同質である。俺は、そうですね、なんのために生きてるんでしょうね、人生は、辛いものです。と言ってほしい。そして、まあ、まだやっていきましょうや、と、なんとなく、別に救いの手を差し伸べるわけでもない、ただいっときの同情の念を向けてほしいのである。
勿論、そんなことをやってくれと直接的に言うわけでもないし、利害関係が絡まなければ要求する筋合いもないといえばない。時々やってくれる優しい人には、密かに心の中で感謝の念をもつくらいである。
なんのために生きているのか、こう口走るとき人間はどういう状況に立たされているのだろう。もちろん多種多様であることには間違いないが、少なくとも今の現状に不満を持っている、この部分では一致していると思う。
自明なことだが、満たされている状態は長く続かない、また月並みな表現になるが、諸行無常である。だから、人間はなんのために生きているのか、そういう思いを死ぬまで持っていかなくてはいけない。そういう意味ではおっさんの言っていることはある意味一部的を得ている。問題は、さも自分がその問題に対して悟ったかのように語ってくることだ。お前は本当にその問題を解決できているのか?解決できているとしたら、彼の言っていることは倒錯している。死ぬまでわからないんじゃないのか。
うまくまとまらないが、とりあえず現在なんとなくうまくいっているからという理由で、解像度の低い、曖昧なマウントをとってくる人間に対しては少しご遠慮願いたいという気持ちになる。まあ自分もたまにやってしまうから、そこは椅子をひっくり返さずに曖昧な微笑で答える。
彼も悪気があるわけではない。ただそれを許してしまうと、自分が同じことをやることになる。他者に批判的な目を向けないということは、自分にある悪い部分も見逃してしまうということである。簡単に言うと、他者に甘い奴は自分にも甘い。
ただ、あまりに他者の粗探しをしていると不幸になるというのは直感的に感じるものがある。
自己実現と幸福感、幸福感と言ってもここでは社会に適合してなんとなくうまくやっていく程度の意味合いだが、そこは折り合いがつかないところがあるのではないかと思った。